当山縁起

時代年代西暦事項
古代7世紀中頃~後期大型掘立柱建物跡2棟、橘樹評家関連、もしくは
有力氏族住居跡か?
7世紀後半影向寺台に橘樹郡の郡家(郡衙)が作られる。
7世紀後半
【影向寺創建期】
現在の薬師堂とほぼ同じ場所に総瓦葺建物。当初礎石
8世紀前半
【塔建設期(掘込事業)】
小ぶりの塔で瓦葺きの痕跡がない。文字瓦の出土
8世紀中頃
【整備期】
現在同位置で金堂再建と推定。
8世紀中頃~後半この頃、現本尊、薬師像の前身仏とみられる一木彫
の仏像が作られる。
8世紀後半武蔵国府の管轄窯で作られた瓦が出土。破損仏
9世紀後半寺院の補修(衰退期?)薬師如来座像
中世11世紀後半現在の本尊、木造薬師如来坐像が造立される。薬師如来座像
14世紀前半聖徳太子孝養像が造立される。聖徳太子孝養像
14世紀前半十二神将像が造立される。十二神将
応永13年1406伽藍再興の勧進が行われる。「長弁私案抄」栄興寺 と記載されている。奈良時代に造営された金堂が 大破、仮設状態だったか?長弁私案抄
応永22年1415この頃、伽藍再興成る。
正長元年 俊1428俊々法印が「三重血脈口決」を心観法印に授ける。
正長2年1429慶舜が「一念三千血脈」を亮俊に授ける。
近世寛永19年1642徳川幕府より5石の朱印地を賜る。 御朱印状は寛永19年(1642)から万延元年(1860) の間、9通残されている。寛永19年御朱印状
万延元年御朱印状
万治3年1660影向寺焼失。「新編武蔵風土記稿」新編武蔵風土記稿-1
新編武蔵風土記稿-2
新編武蔵風土記稿-3
寛文元年1661薬師堂前に石灯籠2基奉納(1基現存)石灯籠
寛文2年1662『江戸名所記』で影向寺が紹介される。江戸名所記
元和元年1681白衣観音の大絵馬が寄進される。白衣観音の大絵馬
元禄7年1694本堂(薬師堂)再建される。(銅板棟札)銅板棟札
元禄10年1697虎の大絵馬が寄進される。虎の大絵馬
元禄14年1701黄檗宗・千呆性侒が扁額を揮毫する。扁額
宝永 7 年1710「影向寺縁起」一巻が撰述される。影向寺縁起
延亨3年1746和泉国・森本宜直、眼病平癒を謝し、影向石碑建立。影向石碑
寛延3年1750野川村ほか数十ケ村の結縁により、薬師堂前に 手水舎が奉納。手水舎
寛延4年1751この年『惣鹿子名所大全』が刊行され「稲毛薬師 栄興寺」(影向寺)が紹介される。総鹿子名所大全
明和7年1770吉田村人により武者の大絵馬が奉納される。武者の大絵馬
安永9年1790この年山岡俊明が未刊の『武蔵志料』を撰し、影向 寺も記される。
享和3年1803薬師堂向拝に鰐口が奉納される。鰐口
文化121815国学者高田與清、玉川に遊び本寺を詣でる。 『世田谷紀行』に記載。『世田谷紀行』
天保3年1832国学者高田與清、玉川に遊び本寺を詣でる。 『世田谷紀行』に記載。天保3.唐銅燈籠
近代天保7年1836この年『江戸名所図会』が刊行され、影向寺が紹介 される。江戸名所図会
天保10年1839桃門派の俳人たち、芭蕉の句碑を建立。芭蕉の句碑
安政2年1855再び鐘楼が鋳造される。(第二次大戦で供出)鐘楼
慶応4年18685月、彰義隊の敗走兵、当寺へ出没する。(森家文書)
現代明治2年1869御朱印地が上知となり、この月、朱印状裁判所へ 還付する。(梶ヶ谷田村家文書)
明治6年1873野川村観音堂から、聖徳太子孝養像が遷座。
明治22年1889この頃、河田羆『武蔵通志』(未刊)を著わし、その 「橘樹郡・寺院の部」に影向寺について記す。『武蔵通志』
明治28年1895『古社寺佛堂.名所旧跡 調査事項取調書』明治28・調書
明治33年1900薬師三尊像「国宝」指定。 (昭和25年、重要文化財に指定)明治28・調書(添付図)
昭和15年194010月、詩人西脇順三郎影向寺を訪ね、「雲の水に 映る頃、影向寺の坂をのぼる薬師の巻毛を数へる 秋」の詩をのこす。・・・㉗西脇順三郎歌碑
昭和42年1967『川崎市史』(全一巻・川崎市役所刊)が刊行され、 同書中において、歴史考古学者古江亮仁氏は過去 の研究成果を踏まえ、影向寺について始めて綜合 的に論じその後の研究に裨益(ひえき)を与えた。
昭和52~56年1977~81影向寺文化財総合調査(川崎市教育委員会が実施)
平成元年19893月、薬師堂の半解体修理工事が完了する。㉘修理工事写真
平成18年2006天台宗比叡山、開宗1200年記念。
平成27年20153月10日、橘樹郡家跡と影向寺遺跡をあわせて 橘樹官衙遺跡群が国史跡に指定される。